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ポップカルチャーを摂取して、コードを吐き出す機械

シン・エヴァンゲリオンを観た

シン・エヴァンゲリオンを観たので、思ったことを適当に書く。まとまった批評には全くなっていないので、ただキーワードを拾っているという感じ。一回しか見てないので記憶違いも多そう。

ネタバレ注意

アニメーションに関して

計算され尽くした対称性の高いルックは、いかにも庵野作品という感じの構成。そこに線路を走る電車を思わせるメカ描写(実際電車だったりモノレールだったりもする)はさすが。

エヴァの戦闘シーンはカメラがエヴァに近くてぐるぐる回って何が起きてるかよくわからないけど、アニメーションならではのカメラワーク。

終盤の戦闘シーンはヤマトとウルトラマン。動力学シミュレーションを利用したエヴァ同士の対決は、そのオブジェクトの動きの安っぽさが、特撮の安っぽさとオーバーラップする。CG時代の特撮か。

エヴァと震災

本作の冒頭は東日本大震災を強く想起させるシーンが続く。最初にシンジ、アスカ、レイが歩く様子は、震災直後に交通インフラが止まり長距離を歩いて帰った被災の様子を思い起こさせる(湯浅政明日本沈没2020でも延々と歩くシーンがある)。トウジたちの住む村では人々は仮設住宅のような場所に住んでいる。電気が貴重な資源として描かれているのは、震災だけではなく気候危機のことも意識しているのかもしれない。コア化なる現象で赤くなってしまった村の外は放射線に汚染されてしまったことを視覚的に表現したのであろう。村の外に出るときに装備する防護服は、原子炉付近で作業する人々を思い出させる。チェルノブイリといっても良いかもしれない。

劇中で語られる「ニアサードインパクト」は、福島原発事故と重なる。福島原発事故は大変な被害をもたらしたが、あと一歩でより悲惨な事故になっていた。(別にまだ解決されたわけじゃないけど)

シンエヴァンゲリオンではなんちゃらインパクトが、原発事故として解釈され直している。

庵野監督はシンゴジラでも震災を描いていたが、本作でも震災からの影響を強く受けている。

そもそも、エヴァのアニメ版が公開された95年は、阪神淡路大震災のあった年だ。庵野監督は阪神大震災で被災はしていないのかもしれないが、エヴァは最初から震災と共にあったのだということを気付かされた。

庵野秀明ヴィーガニズム

被災した村では育てた野菜を食べるシーンが登場する。レイは野菜を育てることで労働を知る。シンジは釣りをするが魚は釣れない。肉食するシーンは描かれない(確か)。野菜を育てることは劇中では肯定的に描かれる。一方でエヴァエヴァを食う。

庵野監督は肉食への強い忌避感を持っていることはよく知られている。ヴィーガンというよりは、偏食のようだ。肉自体の味は好きらしい。

労働とジェンダーロール

被災地の村では農作業は女性が行っている。(一瞬年老いた男性が映るが)

また、村の住人としてはっきり描かれる男性であるトウジとケンスケはどちらも専門的な職についており、単純労働には従事していない。

ジェンダーロールを再強化するような描写である。なぜこのような描写をしたんだろうか。一方で、ビレという組織では中心的な役割は女性が担っている。庵野監督にとってはこういった描写は、無意識なジェンダーロールの再強化というよりは、仕事をちゃんとするのは女性みたいな価値観が有るんだろうか?

人間的な営み

レイは村で様々なことを学ぶ。それは労働であり、挨拶であり手を繋ぐということである。そして本を読むことである。これは、人と動物を決定的に分かつ部分である。純粋な魂の器たるアドバンスド・レイ(あってる?)との違いなのかもしれない。 クリント・イーストウッドによる「インビクタス」ではマンデラネルソンが握手をしたり挨拶をすることを、詩を非常に重要視している。なぜなら、それが人間的な行為であり、奇跡を起こす(=確率のみで決まる物理学的・動物的な枠組みから離れる)ための唯一の方法だから。

自己言及的な終盤

ゲンドウ=シンジ=庵野秀明として終盤は描かれる。コンマリさながら各キャラにさよならをいって断捨離していくシンジくん。各キャラにお別れを行ってもうエヴァはつくらないよという話をしているように読める。セットが組まれたスタジオでのシーン。一瞬mocapを利用したVR内での(プレビズ用の?)撮影機材が映る。機材にはPSコントローラがついてた気がする。おそらくシン・エヴァンゲリオンの撮影に利用された実際のスタジオなのかな? シンジに色んなキャラにサヨナラを言わせることで、庵野監督は各キャラに別れをいっているのだろう。レイ、アスカ、カヲルはたくさんの個体がいて、何度も繰り返しその役割を演じさせられているような描写がある。まどマギを彷彿とさせるような(ギャルゲーを彷彿とさせるような)繰り返しの物語を想起させる。本家も二次創作も含めて何回も何回も作り直されるエヴァンゲリオン、それにケリをつけるということか。

断捨離が終わったあとでシンジくんこと初号機が槍を自分に刺すときに流れる曲はユーミンのvoyager(のカバー)。庵野監督が主演として声を当てた宮崎駿監督の「風立ちぬ」を非常に強く想起させる選曲である(さよならジュピターオマージュ?)。映画「風立ちぬ」はゼロ戦を作った堀越二郎宮崎駿自身を重ねて作られた、宮崎駿版の8 1/2だ。シン・エヴァンゲリオン庵野秀明8 1/2だ。

槍が刺さったエヴァンゲリオンは他のエヴァンゲリオン使徒、戦艦?に姿を変える。まるで黒歴史(ターンエーガンダムで描かれるデータベースとしての黒歴史)から今までのエヴァンゲリオンを引き出し、全部に別れを告げるような演出である。

セカイ系

ネルフにしろ、ビレにしろ、劇中で描かれる人が非常に少ない。ビレは下艦するひとが描かれるが、ネルフは2人でどうやって運営してるんだよと言いたくなる。少人数のみによって世界の命運が完全に決まってしまうというのは、セカイ系の世界観を研ぎ澄ました物語ということなのだろうか。

「シンジくんを信じる」

シンジくんを信じるというセリフが何回も言われていた気がする(一回だけか?)。シンジは信じるの「しんじ」だったということ?

宇治新川駅

最後のシーンは山口県宇治新川駅庵野監督の出身地は山口県宇治である。つまり大人になったシンジくんこと庵野監督は里帰りでもしたということだろうか。このときのシンジくんは声が神木隆之介くんらしい。緒方恵美碇シンジから解放される?

庵野秀明にとっての落とし前をつけること

本作では「落とし前をつけること」というのが繰り返し語られる。庵野秀明にとっての「落とし前をつけること」とは95年に生み出され、その後何度も繰り返し語られたエヴァンゲリオンという物語を終わらせることなのだろう。なので、後半は自己言及的になる。

世代として落とし前をつけなくてはいけないことは、未だ収束の目処の立たない原発事故であり、気候危機だろう。 だから落とし前がついた結果、コア化した世界(=原発事故によって汚染された世界)はもとに戻るということなのか。

宇多田ヒカルはなぜ主題歌を歌うのか

エヴァンゲリオンの最初のアニメーションが公開されたのは1995年である。宇多田ヒカルのデビューはその直後、1998年である。旧劇場版の「まごころを君に」は1997年。エヴァンゲリオン宇多田ヒカルのデビューは同時代といってもよいだろう。その当時の雰囲気は、世紀末という独特の空気感だった。阪神淡路大震災と、オウム真理教の起こした事件、そういったものが混在していた時代だった。そういった時代をともにした作家として、宇多田ヒカル以外に主題歌を任せられる人物はいなかったのであろう。

劇中ではユーミンのカバーもかかるが、宇多田ヒカルユーミンは同じ誕生日。

キャスト

スタッフロールを見ていると安野モヨコがスタッフとして多く登場する。彼女はQには参加していなかった気がする。これはシン・エヴァンゲリオン庵野秀明にとっての回復の物語であり、その回復において安野モヨコが果たした役割は大きいからか?